スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

[演劇]悪魔の唄(1回目)

 衝動的に取った芝居に衝動的に行ってきました。もっとも、地元に来たら、また見に行くんですが。でも、先に見ておいてよかった。頭の中でぐーるぐる回ってます。ああ、もう一回見られる幸せ。
 
『悪魔の唄』
 作・演出:長塚圭史
 出演」吉田鋼太郎,山内圭哉,小島聖,伊勢志摩,池田鉄洋,中山祐一朗,伊達暁,長塚圭史
[あらすじ]
 夫の浮気が原因で心を病んでしまった愛子。夫・一朗は彼女との関係を修復するため、とあるリゾート地にある古い別荘を買い取り、彼女の病気療養のために引っ越してくる。
 そこに現れる若い夫婦。妻は電話を掛けたがる愛子に言う。「電話を貸してあげる。だから穴を掘って」
 やがて、その穴から現れる日本兵たち。無念のままに戦死した彼らは愛子を人質に、一朗にアメリカまで行く爆撃機を用意しろとせまる。
 
  以下、妄想込みでネタバレ(ヤバイ)。

 
<<役バレ>>
 吉田鋼太郎=山本一朗
 伊勢志摩=一朗の妻・愛子
 池田鉄洋=愛子の弟・紀行
 
 小島聖=牧田サヤ
 長塚圭史=牧田眞・サヤの夫
 
 中山祐一朗=立花伍長
 山内圭哉=平山上等兵
 伊達暁=鏡石二等兵
 ※ちなみに伍長(下士官)は小隊長。上等兵以下は兵卒。
 
  
 がんばって理性的に書きたいと思いつつ、萌えの妄想機関車超特急が脳内爆走中なので、いささか支離滅裂になるやも。しかも酔っぱらってる上に長文の気配。
 
 
 一番ガッシリ鷲づかみにされたのは、眞の愛されなさ具合です。もう脳が煮えるぐらいに萌え萌え。
 見てる途中からずっと、「なぜ彼が愛されないか。愛されていないコトがわかっているのに執着し続ける虚しさはないのか。その執着の果ての結末に彼は満足してるのか」をぐーるぐる考えてます。いや、考え無くったって答えは明白なんだけど、勝手に考えてます。あの二人がいかにして結婚したかとか、死ぬ前までの狂気に満ちた夫婦生活とか、ずーっと妄想暴走中。すでにサヤと眞は幼なじみってことになってるし@MY脳内
 少し落ち着け>自分
 
 
 眞みたいなキャラが好きなんです。まったくもって報われない男。しかも小ずるい。おまけに見かけは爽やかで、口調は優しい。気も使えるし、有能だし(アレを“有能”と称するなら“有能”であろう)、背も高いし、顔もそこそこイケてる。ハタから見ればけっこういい物件なのに、一体なにが不満なんだ、サヤ!
 と問えば、彼女はあっさりこう答えるだろう。
「だって。彼は立花さんじゃないもの」
 はい、まったくもっておっしゃるとおり。それが眞の唯一“欠点”(それを“欠点”と称するならば)。ああ、報われない。そこんとこに萌え(笑)。
 
 眞は立花じゃない。だからサヤに愛されない。これが憎まれれでもすれば、まだ感情の持って行きようもあったろうに、サヤは端から関心が無い。
「私たち、合わないのよ」。その一言で切って捨てられる。彼の生き死にすら、彼女にとってはどうでもいい。
 サヤには立花しかいない。眞にサヤしかいないのと同様に。
 
 まったく心のこもらないサヤの“愛の言葉”を聞いて、ようやく納得する眞が、哀しいけれど爽やかで、ひどく愛おしい。彼の意地悪も、言葉だけ聞いていると子供が甘えているみたい。やってることだって子供じみてる。会わせたくないから目隠しをする、ってとこが。
 だけど、その奥底に恨みつらみや激しい愛情が淀んで渦巻いているのが分かるから、哀しいし恐ろしい。
 不器用なんだよなぁ。ほかの事は器用(そう)なのに。ただサヤに対する愛情だけが不器用で空回り。
 てか、サヤが受け止めてくれないからこそ、空回りになってるんだけど。
 
 
 さて一方の立花についても妄想。
 あの登場人物の中で、立花だけが全てを受け止めている人に見える。
 鏡石の兵士としての願いや平山の妻子を失った悲しみと恨みや愛子の信頼やサヤのまっすぐな愛情や眞の恨みつらみ。彼はそのすべてを受け止めている。
 兵士として死にたいと願う鏡石と妻子を殺した鬼畜米英に対する平山の恨みを晴らすためアメリカに特攻しようと言い、夫に絶望し妄想にも裏切られた愛子がかろうじて踏みとどまるためのよすがとなり、長いあいだ彼を思い続けたサヤの想いを(最後には)受け止め、眞の憎しみすら引き受けた。
 立花は逃げなかった。「愛している。やり直そう」と口にしながら、最後まで妻を裏切り続けた一朗とは正反対。
 それが戦中日本人と戦後日本人の差だ、とは言いません。これは個人の差だと思うので。
 もちろん、立花はすべて覚悟の上で引き受けたわけじゃないと思う。半分は無意識で、半分は意識的。上官として、皇国兵士として受け止めた想いは意識的、サヤの愛情や愛子の正気、眞の狂気を受け止めたのは無意識。
 

 妄想ついでに仮説。
 この話の中で、私たちの常識とちょっと違うところにあるのが、幽霊とゾンビの関係性だと思います。幽霊にはゾンビが見えるけど、ゾンビからは幽霊が見えたり見えなかったりする。
 幽霊からゾンビが見えるのは、ゾンビが肉体を持っているからで、これは幽霊に人間が見えるのと変わらない。
 一方で人間に幽霊が見えたり見えなかったり(この話の場合は全員に見えてるけど)、ゾンビに見えたり見えなかったりするのは三通り。
 愛子にサヤが見えたのは、同じ孤独を共有しているから。
 立花にサヤが見えなかったのは、眞の妨害。
 立花に平山が見えなかったのは、想いの照射が無いから。
 幽霊が相手に見てもらいたい時は、想いの照射(と勝手に名付ける)が必要だと思うんです。あるいは感情的な共有とか。
 愛子とサヤは相似形。どちらも“一方的な夫からの愛情”から逃れて、“自分が本当に愛する人”を追い求めている。サヤは立花、愛子は森山。もっとも、愛子のそれは妄想ですが。でも、二人は同じ“孤独”と“痛み”を共有していた。だから姿が見えた。
 一郎や紀行に牧田夫妻が見えるのは、牧田側がコミュニケーションを取る必要性から積極的に姿を現した結果。
 一方、ゾンビチームの立花にサヤの姿が見えないのは、眞の妨害(目隠し)。平山や鏡石にサヤが見えるのは、彼らに見てもらいたいと思うサヤの思いの照射。
 そして、立花が化けた平山の姿を見失う(平山はそこに居るにもかかわらず)のは、平山の「サヤと立花を合わせたいという思い」が成就した事により、立花とサヤに向けられる思いが失われたから。そうなると、肉体を持つ者には魂(思い)だけの存在は見えなくなるのではないかと。
 
 めっちゃ理屈っぽー(笑)。
 まだ色々考えていることもあるけど、あまりにも長いので本日はココまで。
[ 2005/03/07 07:16 ] 観劇・映画 | TB(-) | CM(0)
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。